コロスウィルス

 新型コロスウィルスは何らかの知性インテリジェンスが仕込んだ人口調整のための装置だ、と一部の人間たちの間で噂されている。

 二十世紀の初め頃はわずか十億人だったといわれる世界人口が、ここ百年で七十七億人までに増加した。

 先進国では少子化が叫ばれて久しいが、世界の人口は増え続けている。

 そして産業の発展により、資源は食い尽くされ、地球環境は荒らされ、元来戦争によって行われてきた人類の間引きは、核兵器の登場によって不可能になってしまった。

 

 人類の科学力が禁断の領域にまでおよぶことを何らかの知性は予測できなかったのではなかろうか、と。

 

 説明が遅れた。

 西暦二〇二〇年現在におけるコロスウィルスとは、世界で急速に広まりつつある、全身から血を噴きだし内臓を口から吐き出しながら絶命するという恐るべき病だ。

 もともとただの風邪のウィルスだったものが何らかの変異によって凶悪化したもので、あっというまに世界中に拡散、人類社会は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

 

 現実逃避するように「コロスウィルスはただの風邪」などという政治家まで現れたが、現に世界中で都市封鎖ロックダウンが行われている。経済活動を犠牲にして失業者を増やしてまでウィルス陰謀論を世界で展開する意味はないし、すぐに現実なのだ、と人々は理解した。

 潜伏期間が二週間と非常に長く、最初は無症状でウィルスを撒き散らし、なおかつ老若男女関係なく葬り去るというこの凶悪なウィルスに、世界はてんやわんやの騒ぎになる。

 そりゃそうだ。誰だって口から内臓を吐き出しながら死にたいなどと思うはずはない。

 

 だがしかし都市封鎖ロックダウンというやつは諸刃の剣で、絶え間なく動かしてきた人間社会の経済活動を停滞させる。

 中にはリモートワーク、つまりパソコンやスマートフォンなどを使い、インターネットを利用して仕事ができるのもいる。が、世の中の大部分の仕事、たとえば飲食や商店、旅館やホテルなどの観光産業、映画やゲーム・センターなどといった屋内での娯楽、学校、図書館、コンサート・ホール、球場、バスや電車などの交通機関、病院や福祉施設……とにかく数えあげたらきりがないが、自宅や屋外でやる仕事よりも屋内でやる仕事の方が圧倒的に多い。

 これらすべての営業活動を停止すれば、そこで収入を得ていた人々は職を失う。

 それを何とかするのが国の仕事ではあるが、二週間とか一カ月くらいの短期間ならまだしも、年単位で全労働者の半分以上を占める人々を養う財力などないだろうし、コロスウィルスの封じこめに失敗してもどこかで封鎖を終了しなければ、今度は餓死者が続出する。

 

 

 ある日、都内某所の寿司屋で板前と客が口論していた。

「ただちに営業を中止しろ。このまま人を集めてコロスウィルスの散布を続けるなら、警察を呼ぶぞ」

「なーにがコロスウィルスじゃボケ。こっちは商売でやっとんじゃ。店じまいしたらあんたが生活保障してくれんのか。え」

「非現実的なことを言うんじゃない」

「じゃあ何か。稼ぎを失って餓死しろとでもいうのか。ふざけんなおんどりゃ。寿司を食いに来たんでなけりゃさっさと出ていけ」

 寿司職人は持っていた出刃包丁をカウンターにどんと突きたて、男を威嚇する。

「仕事なら、たとえばオーバーイーツとかを使って宅配でやるとか、いくらでもやりようはあるだろう。コロスウィルスが拡がったらあんたらもただじゃすまないぞ。あんたらが死ぬのは勝手だが、罪もない人々を巻きこむんじゃ――うわ」

 

 刹那、眉間めがけて正確に飛んできた出刃包丁を、すんでのところで客は躱した。

 

「次は当てる」と言わんばかりにもうひとつの出刃包丁を手にした寿司職人の殺気に、とうとう客の男は身の危険を感じて店の外に避難した。

 内臓を口から吐き出しながら絶命する死の病。

 そんなどこかの小説のような話を信じられず、あるかどうかもわからない疾病よりも目先の金だ、といつものように働く人間は多かった。

 自分だけは大丈夫と半ば刷りこむようにして、目先の問題と向きあうことなく、何もなかったことにしていつもの日常を維持しようとするのだ。

 これも何らかの知性インテリジェンスの差し金なのだろうか、などと寿司屋の客だった男は考えた。

 

 男の名前は、田中角明たなかかくめい。美術大学に通うしがない学生だ。

 

 角明はただ運命に身を任せるだけの人生がいやだった。

 たとえ本当に神と呼ばれる超越的存在が壮大な人類の間引きを行おうとしているのだとしても、最後の最後まで足掻き、地獄と化した終末後の世界を生き抜いてやる、と。

 なぜなら彼には日本の総理ボスとなって世界を征服するという壮大な野望があったからだ。

 

 数日後、角明は社会福祉革命労働党を創設、党員を募った。

「我々は死にかけている日本を蘇らせる。この失われた三十年間は日本国進歩の中断期間だった。今やっと本来の状態に戻ろうとしているのだ。我々の力でふたたび世界一の日本ジャパン・アズ・ナンバーワンを取り戻そう!」

 初めはなかなか人が集まらなかったが、現職の総理がテレビカメラの前で内臓を吐き出して絶命してから状況は一変した。

 頭を失った政権与党愛国党の政策は右往左往し、結局コロスウィルス対策は後手後手となっていたずらに感染を拡大し、人々は愛国党に代わる支配者の登場を熱望したのだ。

 労働党が急速に党勢を拡大していく中、愛国党の政策は相変わらずのぐだぐだっぷりで、感染対策も経済対策もどっちつかずのままただ時間だけが経過していった。

 

 

 感染者数が一日で千人を超え始めた頃から、コロスウィルスの話題はどういうわけかテレビやラジオなどのメディアはおろか、インターネットからも消えていくようになった。

 まるで口にすること自体がおぞましい、とでもいうように。

 一年延期されていたオリンピックは、まるでコロスウィルスなど存在しなかったかのように予定通り開催された(会場の外でデモを行っていた一部の民衆はコロスウィルスの感染拡大防止という建前のもと警官隊によって排除された)。

 

 空前の成功を収めた(とテレビのアナウンサーが豪語していた)オリンピックから数カ月ほどして、町中で口から内臓を吐き出して絶命する光景が後を絶たなくなった。

 

 人々の頭は否が応でも現実に引き戻される。

 忘れかけていた殺人ウィルスへの恐怖で、日本社会は混乱状態パニックに陥った。

 もはや仕事どころではない、と、仕事を辞める人が続出。まとめて失業保険や生活保護を求めて役所に駆けこみ、福祉制度はあっというまに崩壊。さらに役所に密集したことで感染は爆発的に拡大。

 

 生きていくために窃盗や強盗、略奪に走るようなのも現れはじめた。

 暴徒と化した国民たちの数が多すぎて警察には対処する術もなく、またコロスウィルスに感染して口から内臓を吐き出して死ぬことへの恐怖から辞表を出す警官が後を絶たず、日本全国各地が無法地帯となり、血で血を洗う弱肉強食の地獄と化した。

 自殺者も急増した。

 誰もが生き延びるために略奪に走れるわけではなく、人を殺して生き延びるくらいなら、こんな地獄で暮らすくらいならと自ら死を選ぶ者もまた少なからずいたのだ。

 

「犯罪者に人権なし。帝国臣民に渾なす者は殺処分する」

 

 角明は、この混乱に乗じて天下統一を果たすべく動きだした。

 社会福祉革命労働党選りすぐりの戦士たち(彼らは自らを革命戦士と呼んでいた)が、密輸したAK47自動小銃を暴徒たちに容赦なく発砲。

 

 ぶぼぼぼぼぼぼ。

 

 爆竹の如くけたたましい複数の銃声とともに七・六二ミリ弾の大群が暴徒たちを一瞬で肉片に変えた。

 弱者の心の隙につけこむように「我々が日本の平和を取り戻す」と、暴徒たちを次々と公開処刑していく社会福祉革命労働党は、悪の暴徒たちを成敗する正義の使者というわかりやすい構図で支持者を急増させ、選挙では過半数どころか九割近くの地区で当選、あっさりと日本の政権与党の地位を獲得――つまり日本の支配者となった。

 

 だが政権の座についた労働党は、次第にその本性を顕にするようになった。

「まず手始めに、経連団のジジイどもを殲滅する。やつらは日本の経済も外交政策も台無しにした。耄碌もうろくした年寄りどもに権力を握らせるのは自由を与えるよりおぞましい大罪だ。老害どもの死亡率を上げるためにも延命治療はやめさせ、安楽死ホスピスの利用を推進しよう。生活保護者も刑務所の犯罪者どもも一掃だ。そして愛国党が秘密裏に推し進めていた計画――原子力発電で培った技術を転用して開発していた核兵器がじきに完成する。いま世界の列強諸国はコロスウィルスの蔓延で混乱している。我々もいつ死ぬかわからない。だから今すぐ戦争だ。この乱世を勝ち抜けば、日本はかつての栄華を取り戻すだろう!」

 

 尖閣諸島に屯していた中国籍の軍艦に放ったミサイルが、開戦の合図だった。

 一変の情けもなく放たれた二千発ものそれは、蜘蛛の子を散らすように逃げる艦隊を根こそぎ海の藻屑へと変えた。

 中国の軍事費は日本の四倍超であり、本来ならば日本に勝ち目はない戦いだったが、角明の策謀によってすでに中国国内に仕込んでいた秘密工作員によるコロスウィルステロが功を奏し、人民解放軍は半壊状態に陥った。

 何せ工作員のひとりひとりが一騎当千の力を持ったバイオテロリストとなるのだ。

 もはや軍の規模での劣勢など意味をなさなかった。

 

 日本の宗主国であるアメリカは、自国でのコロスウィルス拡散に加えて現職の大統領と次期大統領の間で不正選挙を巡る戦いが内戦に発展し、日中戦争への介入どころではなかった。

 中国に次ぐ軍事大国ロシアもまたコロスウィルス対策でてんやわんやの状態に加え、隙あらば漁夫の利をかっさらうべく様子を見ていた。

 

「日本がこれ以上我が国への侵略戦争を続けるのであれば、核兵器の使用も辞さない」

 中国国民党当主習錦濤しゅうきんとうの言葉に対し、角明の返事はこうだ。

「我が国の領海を侵犯した賊どもを排除したまで。貴国こそ、今すぐ我が国への侵略を即刻辞めよ」

 結局どちらも一歩も退かない性格の独裁者であったため戦いは長期化し、世界各地の大国もまた、日本につくか中国につくかの選択を迫られることとなった。

 というのも、日本や中国に経済支配された小国が日中戦争への加担を余儀なくされ徐々に戦火とコロスウィルスが世界全土に拡大。

 このままではいずれ全面核戦争が勃発し、自分たちも巻きこまれると踏んだ大国は日中戦争を鎮火させるをえない状況だった。

 

 かくして第三次世界大戦は、幕を開けることとなった――

 

 ウィルスや細菌といった生物は、〈貧者の核〉と呼ばれる大量破壊兵器である。

 ただでさえ世界で猛威をふるっていたコロスウィルスは、もはや敵を抹殺する兵器として使われるようになり、核兵器の所持によって保たれていたパワーバランスは崩壊。

 もはや弱者も強者も関係なく、殺られたら殺り返す、倍返し、倍倍返し、倍倍倍返し、と、戦争はまたたく間にコロスウィルスを世界の隅々まで拡散した。

 

 

 そして二〇二二年。

 人類はコロスウィルスの封じこめに失敗――滅亡した。

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